大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成3年(ネ)1456号 判決 1993年4月20日

控訴人

安田豊明

右訴訟代理人弁護士

板垣光繁

田辺幸雄

蒲田哲二

大森康子

被控訴人

葵交通株式会社

右代表者代表取締役

樋口光義

右訴訟代理人弁護士

高井伸夫

高下謹壱

山崎隆

内田哲也

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一申立

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  控訴人が被控訴人に対して雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

3  被控訴人は、控訴人に対し、昭和六二年六月二一日以降毎月二五日限り金三三万一三六二円を支払え。

4  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

5  仮執行宣言

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

第二事案の概要

次のとおり付加するほか、原判決事実及び理由の「第二 事案の概要」欄記載のとおりである。

一  控訴人の主張

1  乗車拒否の不存在

控訴人が本件当時大倉山の地名及び位置を知らなかったのは、次の事情からも明らかである。すなわち、控訴人の営業区域は、乗車場所及び下車場所とも東京都新宿区及びその周辺の隣接区に集中しており、近県への運行は極めてまれであり、これまで神奈川方面への運行経験も数回しかなく、しかも大倉山の先まで行ったのは新横浜の一回のみであるが、大倉山への通行道路である綱島街道上の道路標識設置状況をみると、往路及び復路とも大倉山という表示がなされた標識は全くなく、したがって同街道を走行しても、その機会に大倉山の地名を知ることはほぼ不可能であること、大倉山は決して一般的に周知性のある地名ではないし、財団法人東京タクシー近代化センター(以下「近代化センター」ともいう。)が実施する地理講習や業務研修、地理試験等でも、事業区域(東京都内及び武蔵野、三多摩地区)外の地域については対象とされていないことからみると、近県の地理にまで精通することが、乗務員として当然の前提とされている訳ではないこと、更に控訴人の経歴や日常生活においても大倉山を知りうる環境にはなかったものである。

2  解雇事由の不存在

すでに、詳細に述べてきたとおり、控訴人は、大倉山を知らなかったのみならず、その旨本件乗客に伝えたところ、乗客が乗車申込みを撤回したのであって、故意に乗客の乗車断念を誘発したものではない。乗車拒否の成立には故意、すなわち、乗客に乗車を断念させる意図の存在することが必要であるから、結果として乗客が乗車申込みを撤回したとしても、その原因となった控訴人の行為をとらえて「乗車拒否」といえないことは明らかである。

そうすると、被控訴人主張の解雇事由は存在せず、したがって就業規則に該当しないことは明らかであるから、被控訴人のなした本件解雇は無効である。

3  解雇権の濫用(予備的主張)

本件解雇は、左記の諸点を総合的に考慮すれば、解雇権の濫用であることは明らかである。

(一) 処分基準の内容の不当性

被控訴人は、道路運送法等の違反を内容とする「違法行為に対する処分基準」(以下「本件処分基準」という。)を策定し、これに基づいて本件解雇を実行したものであるが、右処分基準は、処分対象たる「行為」の概念が極めて混乱した内容となっており、また処分の適用基準も重要な点で不明確なものとなっている。すなわち、処分基準は、違反行為である乗車拒否を三つの態様に分類し、「(1) 近代化センター等からの「通報の乗車拒否」は、懲戒解雇とする。(2) 近代化センターからの乗車拒否指導報告書について「明らかな乗車拒否」は、懲戒解雇又は予告解雇とする。(3) 右以外の「乗車拒否指導報告書の違反行為」は、減給処分及び乗務停止処分とする。」旨定めているが、乗車拒否の概念に二義のないことは、すでに明らかであり、したがって、右の三種類の「乗車拒否」の概念やその相違点が全く不明であるうえ、これに対して課せられる処分内容に軽重の差を設けた理由も不明であり、かかる不正確で分かりにくい処分基準によって、労働者の生活を一変させる解雇処分が行われることは許されない。

また、処分基準の上記(3)のただし書において、「再犯者については懲戒解雇又は予告解雇とする。」と定められているが、右再犯者の概念は曖昧かつ不正確である。

(二) 手続上の不公正

本件処分基準は、前記のとおり、その内容が不合理、不明瞭であるうえ、予め従業員に明らかにされていなかったものであり、かかる解雇という重大な結果をもたらす基準について、予め労働者に明らかにしないまま適用することは、不意打ちであり極めて不公正といわざるを得ない。

また、被控訴人は、本件解雇に至るまでの間に、控訴人に乗車拒否の意思があったか否かを十分に調査するとともに、控訴人自身からも冷静に事情聴取をするなどして本人に弁明の機会を与え、また近代化センターに対しても異議申立て、弁明の機会を与えるべきであるのに、かかる手続きを全く履践しないまま、近代化センターから指導を受けたことを唯一の理由として即刻本件解雇に及んだものであって、不当解雇といわざるを得ない。

(三) 均衡を失した過酷な処分

控訴人と本件乗客との間には本件について一切トラブルはなく、乗客も控訴人の対応を非難していない。また、控訴人は、九年余りの雇用期間中、本件の一年余り前の乗禁地区違反のほかには、これまで乗車拒否を含めて前歴はない。そして、本件事案は報告事案ではなく、指導事案にすぎないから、被控訴人は行政処分も刑事処分も課されないのに対し、控訴人は被控訴人から退職を強要され、乗車拒否の汚名を着せられ職を奪われるというものであって、かかる事情を総合すると、本件解雇は明らかに均衡を失した過酷な処分というべきである。

(四) 正当な理由のない処分

解雇処分は労働者にとって重大な不利益処分であるから、会社にとって当該労働者を排除しなければ、企業秩序を維持できず、あるいは業務の円滑な運営を確保できないという事情が必要とされるところ、前記のとおり本件の事案の内容、その与えた影響その他の事情に照らすと、控訴人を会社から排除しなければならない事情ないし理由を見出すことは困難である。

二  控訴人の主張に対する被控訴人の認否及び反論等

1  控訴人の主張1について

タクシー乗務員が通常特定の地名や走行経路等を修得する方法は、幹線道路や主要道路、旧街道との位置関係、鉄道駅の存在等についての基本的な地理知識を基に同僚等との情報交換、実務経験の積み重ね等の中で知識を広めていくのが一般的であって、走行中の道路標識で修得するのはむしろまれというべきである。道路標識に頻繁に記載されている地名は、そのことの故に乗務員にとって馴染みが深くなるということはあるとしても、地名の周知性は、本来道路標識の記載の有無・程度とは必ずしも関連性がないものである。

また、一般的に言って、タクシー運転手は、特定の地名についての位置関係を修得する方法として、鉄道の駅を基準にすることが極めて多く、したがって、鉄道駅の名称が住居表示上の地名でないからといって、周知性が乏しいということもいえない。そして、大倉山は、東急東横線の駅名であり、東京南西部を営業地域とする被控訴人会社の乗務員である控訴人にとって、「東急東横線の大倉山」「綱島街道の大倉山」として知らないということ自体ありえないことや、控訴人の大倉山の知・不知についてのこれまでの供述が一貫していないこと等の事情に照らすと、控訴人が大倉山という地名を知っていたことは明らかというべきである。

2  同2について

本件は、乗車の意図を示して乗車の申込みをした本件乗客に対し、控訴人は、大倉山の地名・道順を知っていたにもかかわらず、同所への運行を敬遠し、乗客に乗車を断念させる意図で「わからない」といって、乗車申込みを断念させたものであるから、乗車拒否が成立することは明らかであり、仮に乗客側に乗車拒否されたという明確な意識がなく、外形的には乗車の申込みを撤回したものであっても、そのこと自体から当然には乗車拒否の成立に消長をきたすものではない。

被控訴人会社では、タクシーの乗務員が行き先の道順を知らないときでも、「わからない」と答えた場合には、乗客が乗車を拒否されたと思い、その結果、乗車拒否の事態を招来することになることから、右のような答え方をしてはならない旨を服務規律中や明番講習等の機会に教育指導しており、八年以上のタクシー乗務員の経験を有する控訴人も十分知っていたものであり、したがって、乗車拒否の意図からではなく、真実知らなかったため、端的に「わからない」と答えたとは到底考えられない。

仮に、控訴人の主張するように、控訴人が大倉山の地名や道順を実際に知らなかったとしても、「わからない」と答えたのみで、それ以上に大倉山のおおまかな道順や所在場所を知ろうとする意思もなかったことは明らかであり、したがって、右道順の不知を奇貨として乗客に乗車を断念させる意図で「わからない」と述べたのであるから、乗車拒否の意図が認められるものである。

3  同3について

(一) 同(一)について

被控訴人の本件処分基準に記載された乗車拒否事案のうち、(1)は、違法行為として指導されたが、乗務員が右指導に従わないなど悪質と認められ、単なる指導報告書でなく「通告書」と題する報告書が作成され、送付される場合であり、また、同(2)は、本件のように違法行為として指導報告書が作成されるが、乗務員の弁解を考慮しても違法行為の成立を否定できないことが明らかな場合であり、更に同(3)は、違法行為として指導報告書が作成されたが、乗務員の弁解を考慮すると、必ずしも違法行為と認定するには証拠や事実関係が不十分であるような場合であって、右は、乗車拒否の情状による処分の軽重を示したものにすぎず、乗車拒否に三種類があるというものではなく、処分基準が不明確ともいえないし、むしろ、被控訴人会社では事案の軽重に応じて慎重に処分を決定していることを裏付けるものである。

(二) 同(二)について

被控訴人は、控訴人から十分事情を聴取したうえで慎重に本件解雇を決定したものであり、処分に関し、重大な手落ちがあったというようなことは一切ない。

また、被控訴人の処分基準は会社内部だけで内規として使用しているものであるが、講習会等での説明とともに公表しているものである。

(三) 同(三)について

本件において、たまたま乗客が不満を述べなかったとしても、乗車拒否の意図や乗車拒否の成立を否定する証拠となるものでないことは、すでに指摘したとおりであるが、乗客にとっては、「道がわからない」と巧妙かつ欺罔的に乗車拒否をされれば、とっさには乗車拒否されたとも思わず、不満を述べる暇もないのが普通である。

(四) 同(四)は争う。

第三争点に対する判断

次のとおり付加、訂正、削除するほか、原判決事実及び理由中の「第三 争点に対する判断」欄記載のとおりである。

一  原判決五丁表三行目から同一〇行目までを次のとおり訂正する。

「本件解雇は、控訴人が乗車拒否をしたことを理由とするものであるところ、右乗車拒否の有無を判断するにあたっては、単に乗務員の明示的な言動のみならず、乗務員と乗客との対応及びその前後の状況等を総合して判断する必要があるというべきである。

1  そこで、まず、控訴人と本件乗客との間のやりとりについてみてみるに、証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 控訴人は、昭和六二年五月一三日、被控訴人会社所有のタクシー(以下「控訴人車」という。)に乗務し、ワシントンホテルから歌舞伎町まで乗客を運行した後、同日午後一一時三〇分ころ、空車で東京都新宿区歌舞伎町一丁目一七番地先路上(以下「本件現場」という。)に差しかかり、信号待ちのため一時停止したところ、三五歳位の男性(以下「本件乗客」という。)が控訴人車に近寄り、同車の窓ガス(ママ)を叩いたため、控訴人は、後部左側ドアを開けた。

(二) 本件乗客は、直ちに車内に乗り込むことなく、同車のドアに手をかけたまま、上半身を車内に入れながら、「大倉山まで」と言って乗車を申し込んだところ、控訴人が「分からない」と答えたため、乗車を断念して控訴人車から離れた。

(三) その直後、右の状況を観察していた近代化センターの指導員三名が控訴人車に近づき、羽鳥指導員が控訴人を、また、安田及び小倉両指導員が本件乗客からそれぞれ事情を聴取したが、その際、控訴人は、指導員の事情聴取に対し、お客からの乗車申込みに対して「道が分からないんですけどと言ったら、じゃいいやと言ってお客さんのほうから行ってしまった。道が分からないなどといわないで乗せていけばよかったんですね」と弁明していた。」

二  同裏一行目の「オオクラへ」を「オオクラ知っているか」と訂正し、同八行目の「第二一号証」の次に「、第三五号証」を加入し、同九行目の「財団」から同一〇行目の「いう。)」までを「近代化センター」と訂正し、同六丁表四行目の「原告」の前に「証人安田克己、」を加入し、同八行目の「原告は、」から同一〇行目の「できない。)、」までを削除する。

三  同六丁裏三行目の「号証」の次に「、第三五号証」を、同行目の次に行を改めて次のとおり各加入する。

「控訴人は、近代化センターの指導員が作成した指導報告書や陳述書等の信用性を争うので、以下、近代化センターの性格及び実際の街頭指導と右に伴う指導報告書の作成の経過、実情等をみてみることとする。

証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一)  近代化センターは、昭和四五年法律第七五号タクシー業務適正化臨時措置法の制定に先立ち、昭和四四年一二月二四日、東京における一般乗用旅客自動車運送事業の近代化及びサービス改善を推進することにより、同事業の健全な発達を図るとともに利用者の利便を増進することを目的として設立された公益財団法人であり、右措置法に基づく業務としては、運転者登録業務、適正化事業の実施、地理試験事務代行に大別され、本件のような指導員による街頭指導は、右適正化事業の一環である「タクシーの運転者の道路運送法に違反する運送の引受けの拒絶その他同法又は右臨時措置法に違反する行為の防止及び是正を図るための指導」に基づくものである。

(二)  一般的な指導の実情は次のとおりである。すなわち、近代化センターの指導員は、指導現場において、乗務員及び乗客の双方から事情を聴取した結果、違反行為が行われたことが判明した場合には、右聴取した内容を報告書に記載したうえ、指導員の判断により件名欄に「指導報告(乗車拒否)」等の違反名を記入し、同報告書は指導二課を経由して調査課に回付され、同課において更に右報告書の内容等につき検討したうえ、右の判断が正しいと認められたときは、乗務員の所属事業所に送付される。

(三)  ところで、指導現場において、乗客から事情聴取ができない場合とか、明らかに違法行為に該当しないと判断された場合には、指導報告書を作成しないものとしたり、単にメモ的に記録するに止めて指導報告書まで作成せず、また、乗客から聞いた内容が曖昧であったり、乗務員と乗客との説明の間に食い違いがある場合とか、乗務員の弁解に真実性があり、違法行為該当性の判断が微妙な場合には、指導報告書には右の事情・経緯等をそのまま記載するが、違法行為としての成否の判断が困難であるため、指導報告書の件名欄には何も記入しないで、調査課に最終的な判断を委ねる取扱いとなっている。

以上の事実が認められ、右認定事実に照らすと、本件現場における控訴人と本件乗客との間のやりとりの内容が、仮に控訴人の主張するように、本件乗客から、まず大倉山を知っているかと聞かれ、「道を知らないんですが、教えてくれますか」と答えたところ、本件乗客は、「知らないんじゃいいや。」といって立ち去ったというものであり、かつ、控訴人がその旨を本件現場で事情聴取をした近代化センターの指導員にそのまま説明ないし弁明した場合には、右事実の存否及びこれに対する最終的な評価はともかくとして、少なくとも乗務員と乗客との右やりとりやその際の言動等は、控訴人の乗車拒否を判定するにあたり、極めて重要な事情の一つとなることは明らかであり、また、将来乗務員から異議申立て等がなされる場合をも考慮すると、指導員が指導報告書を作成するにあたっては、当然、乗務員の弁解内容として記載されるべき事柄に属するものというべきところ(<人証略>は、本件現場で控訴人から、控訴人と本件乗客との間で右のようなやりとりがあった旨の弁明がなされていれば、当然指導報告書に右の内容を記載するし、また、件名欄は白紙にすると証言している。)、本件全証拠によるも、本件現場において控訴人を指導した指導員らが殊更控訴人の主張するやりとりや問答等を報告書に記載しなかったものと認めるに足りる特段の事情も立証もない。

そうすると、指導員の作成した指導報告書や陳述書の信用性を特段の反証もないのに一概に否定するのは相当でないというべきである。」

四  同七丁表六行目の次に行を改めて次のとおり加入する。

「3 控訴人は、仮に本件乗客が乗車の申込みをしたとしても、前記のとおり、本件乗客は、控訴人車に乗り込まずに顔だけを車内に入れて行き先を告げ、控訴人から大倉山は知らないといわれるや簡単に乗車を断念しており、その後近代化センターの指導員に対しては、一切控訴人の態度等を非難するような言葉を述べていないこと等の事情に照らすと、本件乗客は、大倉山への道順を良く知っている運転手であれば乗車しようという程度の意識しか有していなかったものであり、したがって、本件は乗務員による乗車拒否ではなく、むしろ乗客からの乗車申込みの撤回の事案であると主張する。

しかしながら、すでに認定・判断したとおり、本件乗客は、控訴人に対して「大倉山へ」と告げたのみで「大倉山を知っているか」とは言っていないことや、一般的に乗客が遠距離の乗車を申し込んだ際、運転手から、いきなり行き先は知らないといわれた場合には、運転手が行きたくないものと考え、当該タクシーに乗車することに不安を感じて乗車を断念することはままあり得ることであり、また、一般の乗客のなかには、停車したタクシーにいきなり乗り込むことをせず、運転手の接客態度等を観察してから乗車するという人もおり、その他、本件場所や乗車申込時間帯に照らすと、果たして、控訴人の主張するように、本件乗客が、大倉山の地名及び道順を良く知っている運転者のタクシーにのみ限定し、それ以外のタクシーには当初から乗車する意思がなかったものであるとか、あるいは確定的な乗車申込みの意思表示ではなく、乗車申込みを撤回することもありうる心理状況であったと認めるのは困難であり、他にこれを認めるに足りる証拠はない。」

五  同八丁裏一〇行目の「号証」の次に「、第三五号証」を加入し、同九丁表末行目の次に行を改めて次のとおり加入する。

「控訴人は、控訴人の日頃の営業区域の特質や神奈川方面への運行経験の有無・程度、大倉山へ至る走行道路である綱島街道の道路標識の設置状況、近代化センターの実施する講習や地理試験の傾向、更には控訴人自身のこれまでの経歴等のほか、乗車拒否の動機の不存在等を掲げて、控訴人が本件当時大倉山を知らなかったことを主張し、一方、被控訴人は、控訴人がこれまで勤務上あるいは私的に何度か神奈川方面に行った経験があること、タクシー運転手の日頃の地名等の修得方法の実際、特に主要道路や旧街道の位置や付近の鉄道駅の存在等を基準とすることが多いこと、更には控訴人が日頃新宿区及びその周辺の区域を対象とした近距離の営業を中心に行ってきたことその他控訴人の運転手経験の年数等を総合すると、控訴人は本件当時大倉山を知っていたにもかかわらず、深夜の綱島街道の交通事情等が良くなかったことから、乗車を拒否する目的で大倉山を知らないと述べたと反論している。

前記認定事実及び証拠(<人証略>(原審及び当審))並びに弁論の全趣旨によれば、乗車拒否行為がタクシー利用者の利便を妨げ、ひいてはタクシー事業に対する社会的な信用を著しく損なう典型的な違反行為であって、過去において乗車拒否が大きな社会問題化し、世間からも厳しく指弾された経緯もあって、タクシー業界や近代化センターの指導に基づき、被控訴人は、従業員に対し、乗務員服務規律等において乗車拒否その他の違反行為の態様について事例等に即しつつ、詳細に説明するとともに、教育訓練や講習会の機会等においても繰り返し周知徹底を図ってきたことが認められる。しかして、一般の乗客がタクシー運転手に対して行き先を告げて乗車を申し込んだところ、運転手から単に行く先は知らないといわれた場合、乗客のなかには、運転手が運行を嫌がっていると疑心暗鬼になり、また、行き先を一々運転手に指示することの煩わしさ等から、乗車を諦めるという事態も起りうること、一方、タクシー運転手のなかには、時には、乗客の右心理を悪用して行き先が分からないと答えることにより、外形的には乗客に自ら乗車を断念させる形をとりつつ、結果的には事実上乗車拒否を実現するという悪習を招来する可能性もあること等を合わせ考えると、たとえ運転手が行き先を知らないため当該運転手自身には明確な乗車拒否の意思はないとしても、乗客からの乗車申込みに対し、単に行く先が分からないと答えることにより、乗客に乗車を断念させたときは、行為の全体的評価として、職業運転手としてなすべき職務上の義務に著しく違反し、ひいては正当の理由のない運送引受義務の拒絶に該当するものと解するのが相当である。故意がなければ乗車拒否に当たらないという控訴人の主張は右に説示したとおり採用することができない。

そうすると、いずれにしても、控訴人の行為は乗車拒否に当たるものというべきである。」

六  控訴人の当審における主張(解雇権の濫用)

1  控訴人は、まず、本件処分基準に定める違反行為の内容が不明確ないし不明瞭であり、これに課せられる処分の軽重や相当性を判断できないと主張するが、右処分基準は、その規定内容からも明らかなように、仮に乗務員の違反行為が認められたとしても、個々の事案毎に、行為の動機や態様、反省の程度等において様々な個別的事情が介在しているため、それらに対応した適切、妥当な処分を決定するようにしたものにすぎず、もとより基準内容が不明確とか不明瞭とまではいえないから、控訴人の右主張は理由がない。

2  本件処分基準が事業所に掲示される等被控訴人の従業員に周知されていたことは既に認定したとおりであるからこの点に関する控訴人の主張は理由がない。次に、控訴人は、本件が発生してから本件解雇に至るまでの間、被控訴人は、自ら事実を調査したり、また、控訴人に十分弁明の機会を与えるなどして違反行為の存否や解雇の相当性につき慎重に調査・判断した形跡は全くなく、極めて不十分な近代化センターの報告書の記載をそのまま盲信し、右報告があったことを唯一の理由として解雇したものであると主張するので、まず、本件から本件解雇までの経過をみてみるに、証拠(<証拠略>)並びに弁論の全趣旨を総合すると、控訴人は、近代化センターの指導を受けた後もそのまま乗務を続け、翌日(昭和六二年五月一四日)午前三時ころ帰庫し、通常どおりの洗車作業や納金等の手続を済ませた後、運行管理代務者小山晏永に対し、歌舞伎町で乗客から「大倉山知っているか」と聞かれたので、知らないと返事をしたところ、乗客は控訴人車から離れたので発進した際、近代化センターの指導員から指導を受けた旨の終業報告をしたこと、更に右小山の指示により、同日午前六時三〇分すぎころ、控訴人の上司である被控訴人会社の犬塚俊一営業係長に対し、右同様の説明をしたところ、犬塚係長から「同日九時すぎころ、近代化センターに問い合わせてみるが、責任を取ることになるかも知れない。」旨警告したが、「覚悟している。」と返答したこと、そこで、犬塚係長は、同日午前九時一〇分ころ、電話で近代化センターに電話して、前日の控訴人に対する指導内容を問い合わせたところ、控訴人と本件乗客との間で、本件指導報告書記載のようなやりとりや経過があったことが確認され、直ちにその旨被控訴人会社の森治平常務に報告するとともに、控訴人と面談したこと、翌一五日の定例会議において控訴人の解雇が決定され、同月一七日前川徳一営業部長を通じて控訴人に対して同年六月二〇日限り解雇する旨通告されたこと、控訴人は、昭和六一年四月の乗車禁止地区営業違反行為の際、近代化センターに対し異議申立てのため赴いたことがあり、近代化センターの指導に対する不服申立て方法を承知していたことが認められ、右の経過や本件事案の内容、控訴人の対応等を総合すると、本件解雇に至る過程において、特段手続上不公正な点があったとか、近代化センターの報告のみを一方的に鵜呑みにし、右報告を唯一の根拠として本件解雇に及んだものと認めるのは困難である。

3  その他、すでに認定・判断した本件違反の態様及びその社会的影響力、控訴人のこれまでの処分歴等を総合すると、本件解雇が均衡を失した過酷な処分であるとか、正当な理由のない処分であるということはできず、したがって、本件解雇が権利濫用に当たると認めることはできないし、他にこれを認めるに足りる証拠もない。

第四結論

よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 時岡泰 裁判官 大谷正治 裁判官板垣千里は、転補につき署名、押印することができない。裁判長裁判官 時岡泰)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例